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心身並行説
心身並行説または単に並行説とは、心と体は存在論的に別のものとしてあるが、お互いがお互いに影響を与えることは出来ない、という考え。 心的な事象は心的な事象と相互作用し、脳で起きた現象は脳での現象と相互作用するが、心と物的なものは並行して進んでおり、お互いに影響を与え合っているように見える、とする。 この考え方を取った最も有名な人物はゴットフリート・ライプニッツである。 ライプニッツはこの宇宙には唯一の種類の実体、すなわちモナドだけが存在すると考える形而上学的一元論者であり、すべてはモナドに還元できると考えていたけれども、それにもかかわらず彼は「心的なもの」と「物的なもの」の間には因果に関して重要な区別が存在すると考えていた。 彼によると、心と体はお互いと調和するように神が事前に調整してくれているのである。 これは予定調和 (pre-established harmony)の原理として知られている。
機会原因論
機会原因論(Occasionalism)はニコラ・ド・マルブランシュによって唱えられた説で、物理現象のもつ因果関係、そして物理的な現象から心的な現象への因果関係について、すべて実際の因果関係ではない、とする考え方。 心的な存在と物質的な存在を二種類の異なる存在として認めながらも、そうした対象の変化を実際に引き起こしているのは、神であるとした。 そして神の非常に規則的な作業の結果、私達はそれを単なる因果関係であると見誤ってしまうと考えた。

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随伴現象説
随伴現象説(Epiphenomenolism)はトーマス・ヘンリー・ハクスリーによって最初に提唱された考え方で心的な現象は因果的に無力である。 物理的な事象が物理的な事象を引き起こし、かつ物理的な事象は心的な現象も引き起こす。 しかし心的な現象は因果的に無力な副産物(随伴現象、epiphenomena)にすぎず、物理世界に何かを引き起こすことは出来ない。 この考え方は近年では、フランク・ジャクソンによって最も強く支持されている。
性質二元論
性質二元論とは、物質が適切な仕方で組織されたなら(すなわち、生きた人間の体が組織されるような仕方で組織されたなら)、心的な性質が創発する(emerge)という立場である。 したがってこれは創発的物理主義の一形態である。 これらの創発的な性質は独立の存在論的な地位を持っており、創発のもととなった物理的基体 (physical substrata)に還元することも物理的基体を使って説明することもできない。 この立場はデイヴィッド・チャーマーズによって支持され、近年再評価されている。

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心身問題に対する一元論の解答
二元論とは対照的に,一元論は、唯一の基礎的実体だけが存在すると主張する。 今日、西洋哲学において最も広く受け入れられている一元論は物理主義(Physicalism)である。 物理主義的な一元論は、物理的な実体だけが唯一存在していており、我々の科学が最もよくその性質を明らかにする,と主張する。 しかし、物理主義といえども、その定式化は多様なものであり得る。
一元論のもうひとつの形態は観念論(唯心論)である。 これは存在する唯一の実体は精神的なものであると主張する。 これは現在の西洋哲学においては一般的ではない立場である。
現象主義は、外的対象の表象(あるいはセンス・データ)が存在するもののすべてである、とする理論である。 この考え方は、20世紀初頭、バートランド・ラッセルや多くの論理実証主義者が一時的に採用したものである。
第三の可能性は、存在するのは物質的でも精神的でもない何かである、という考えである。 精神的なものも、物質的なものも、両方ともこの中立的な実体のもつ性質であるということになる。 この立場は、スピノザが採用し、19世紀になってエルンスト・マッハによって広まったものである。 こうした中立的一元論は、いわゆる性質二元論(Property dualism)に似ている。

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物理主義的一元論
行動主義
詳細は「行動主義」を参照
行動主義は、20世紀の大半、特にその前半において、隆盛を極めた心の哲学である。 心理学において、行動主義は内観主義の欠点に対する反動として発達した。
自分自身の内的な心的生活についての内観的報告は正確になるように丁寧に吟味されているわけではなく、予測的一般化を形成する上では利用できない。 一般化や三人称的吟味の可能性なしには心理学は科学になりえない、と行動主義者は言う。 したがって、そこから抜け出すには、内的な心的生活という考え方(ということはつまり存在論的に独立なものとしての心)を消去して、そのかわりに観察可能な行動の記述に完全に集中することである。
心理学におけるこうした展開と並行的に、ある種の哲学的行動主義(「論理行動主義」と呼ばれることもある)も展開された。 この立場は強力な検証主義に特徴づけられているのだが、検証主義によれば内的な心的生活に関する検証不能な言明は無意味だと一般に考えられる。 行動主義者にとっては心的状態は内観的報告ができるような内的状態ではない。 心的状態とは行動ないしある仕方で行動する性向の記述にすぎず、他人の行動を説明したり予測したりするために第三者によってなされるものである。
哲学的行動主義は、ウィトゲンシュタインが支持していたことで知られるが、20世紀の後半以来、認知主義の興隆と同時に支持を失っていった。 認知主義は行動主義のいくつかの問題点を認識して行動主義を否定した。 たとえば、行動主義は、ある人がひどい頭痛を経験しているという出来事について誰かが語るときに、その人の行動について話していることになる、という点で直観に反する主張をしていると言える。

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同一説
タイプ物理主義(ないしタイプ同一性説)はJ.J.C.スマート (J.J.C. Smart) [12]とアリン・プレイス (Ullin Place) [36]によって行動主義の失敗に対する直接の反応として展開されたものである。 これらの哲学者は、もし心的状態が物質的なものであって、しかもそれが行動ではないのなら、おそらく脳の内的状態と同一ではないかと推論した。 非常に単純化した言い方をすれば「心的状態Mは脳状態Bにすぎない」ということである。 たとえば、「コーヒーを一杯ほしいという欲求」は「脳のある領域のあるニューロンの発火」以外の何者でもないということになる。
同一性説はちょっと見たところはもっともらしく見えるが、強力な反論がある。 それはヒラリー・パトナムが最初に定式化した多重実現可能性のテーゼの形での反論である。 人間だけでなく、いろいろなことなった種の動物が、たとえば痛みを感じるというのは明白である。 しかし、同じ痛みを経験しているこれだけ多様な有機体が同じ同一の脳状態にあるとは非常にありそうになく思える。 そしてもし彼らが同一の脳状態にないのだとしたら、痛みは特定の脳状態と同一だということはありえない。 こうして、同一性説は経験的な根拠を持たないということになる。
他方、これをすべて認めたとしても、あらゆる種類の同一性理論を放棄しなくてはならないということにはならない。 「トークン同一性」理論によれば、ある脳状態がある人のただ一つの「心的」状態と結びついているという事実は、必ずしも、心的状態の「タイプ」と脳状態の「タイプ」の間に絶対的な相関があるということを意味しない。 「タイプとトークンの区別」は簡単な例を使って説明できる。 「いろいろ」という言葉においては二つのタイプのひらがな(「い」と「ろ」)が使われているが、「い」というタイプの字も「ろ」というタイプの字もそれぞれ二回生起している(つまりそれぞれ二つのトークンを持つ)。
「トークン同一性」というのは、心的出来事の特定の「生起」(トークン)は物理的出来事の特定の「生起」(トークン)と同一というだけでそれ以上ではないという考え方である。 非法則的一元論(以下を参照)と、その他の大半の「非還元的物理主義」の諸理論はトークン同一性の理論である。
これらの問題にもかかわらず、主にジェグォン・キムの影響のおかげで、タイプ同一性理論に対する関心も最近再び高まっている。
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