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様々な立場
クオリアに関する様々な立場
クオリアに関する議論は様々な論点が知られているが、中でも最も大きな論争となるのは、その存在論的な位置づけに関する議論である。 つまりクオリアは現在の物理学の中でどこに位置づけられるのか、という問題である。 この問題に対する考え方の詳細は論者によって様々であり、一概に分類することはできないが、おおよそ以下の三種類に分けることができる。 物理主義的立場、二元論的立場、そして判断保留型、の三つである。
物理主義的立場
クオリアは何か非常に真新しく、現在の物理学の中には含まれていないものように見えるが、そんなことはない、すでに含まれているのだ、という立場。 こうした立場は一般に唯物論または物理主義的と呼ばれる。 この立場を取る世界的に有名な論者としてフランシス・クリック、ダニエル・デネット、チャーチランド夫妻(パトリシア・チャーチランド、ポール・チャーチランド)が、また日本語圏で有名な論者として信原幸弘、金杉武司がいる。 この立場ではフロギストン、カロリック、生気といった科学史上の誤りを例にとって、クオリアもそうした例のひとつに過ぎないと考える。
二元論的立場
クオリアは現在の物理学の範囲内には含まれていない、と考える立場。 つまり既知の物理量の組み合わせでクオリアを表現することはできない、という立場。 こうした立場は一般に二元論的と呼ばれる(ただし二元論と呼ばれてはいるが、霊魂や魂の存在を仮定するデカルト的な実体二元論を主張しているわけではない点注意されたい)。 この立場は大きく次の二つに分かれる。 ひとつは「物理学の拡張によって問題は解決される」という立場。 そしてもう一つは「そもそも私達人間にはこの問題は解けない」という立場である。

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物理学拡張派
クオリアは現在の物理学に含まれていないから、クオリアを含んだより拡張された物理学を作ろう、という立場。 世界的に有名な論者としてデイビッド・チャーマーズ、ロジャー・ペンローズが、またペンローズの流派に属する日本語圏で有名な論者として茂木健一郎[13]がいる。 この立場には二つの違った流れがある。
1.情報に注目する立場
クオリアと物理現象の間をつなぐ項として、情報に注目している一連の研究の流れがある。 ジョン・アーチボルト・ウィーラーの "it from bit"(すべてはビットからなる)という形而上学に影響を受けて主張されたデイビッド・チャーマーズの情報の二面説(Dual-aspect Theory of Information)や、ジュリオ・トノーニの意識の情報統合理論のような数学的な構成を持った理論がある。 トノーニは意識の単位はビットだと主張する。
2.量子力学に注目する立場
クオリアと量子力学における観測問題との間に何らかの関係があるのではないか、と考える一連の研究の流れがある。 しばしば量子脳理論と一括りで表現されることもあるが、そうした理論の中で最も有名なものとして、ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフの提唱する波動関数の客観収縮理論(Orch-OR Theory)がある。 この理論によれば、脳内でチューブリンというタンパク質の波動関数が収縮する際に、意識体験(クオリア)が生まれる、とされる。 そしてこの収縮が連続して継起することで意識の流れが生み出される、と。 ただこれは理論物理学者が提示している説とはいえ、その内容はまだいたって概念的なものであり、理論の詳細が数式や方程式の形で具体的に示されているわけではない。
ニューミステリアン
クオリアは現在の物理学に含まれておらず、ハードプロブレムは依然として残っているが、私達人間にはこの問題は解くことは出来ないだろう、と考える立場。 一般に新神秘主義と呼ばれる。 代表的な論者にトマス・ネーゲル、コリン・マッギン[16]、スティーブン・ピンカーなどがいる。 ネーゲルはクオリアの問題が解決されるためには、少なくとも私たちの持つ世界に関する見方、それが根本的なレベルから変化しなければ無理だろう、と考える。 マッギンは、人間という種が持つ固有の認知メカニズムはある一定の能力的限界を持っており、そのキャパシティを超えた問題が人間には把握できない、という認知的閉鎖(英:Cognitive closure)の概念を軸に置く。 そして意識の問題はそうした私たち人間のキャパシティの範囲を超えた問題、つまり解決できない問題なのだと考える。

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判断保留型
ハード・プロブレムについて机上でいくら議論を積み重ねても謎は解けそうにもない、と考える立場。 だから哲学者がやってるような形而上学的な議論は一時脇に置いといて(判断保留にして)、まずは実証的なデータを積み重ねていこう、と主張する。 この立場の代表的人物としてクリストフ・コッホがいる。 こうした考えを背景に持つ研究で有名なものとして以下のようなものがある。
NCCの探索
意識と相関するニューロン(NCC:Neural correlates of consciousness 特定の意識体験を起こすのに必要な最小のニューロンのメカニズムとプロセス)を同定していく研究。 クリストフ・コッホが有名である。
事例・症例の研究
これはNCCの研究と並行するが、盲視、半側空間無視、共感覚、幻肢痛、といった様々な事例・症例の調査・研究をもとに質感の問題にアプローチしていくスタイル。 ラマチャンドランが有名。

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歴史
クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語に由来する。 この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。 しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。 まず1929年、アメリカ合衆国の哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用する。
私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。 そしてこれらには何らかの普遍的なものだと考えられる。 私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。 クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これらは対象の特性とは区別されなければならない。 この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。 クオリアはダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない。
ルイス『精神と世界の秩序』(1929)
その後、1950年代から1960年代にかけて、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められる。 1974年には、クオリアの問題にとって大きい転機となる論文が現れる。 アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが提示した「コウモリであるとはどのようなことか」という思考実験において、物理主義はクオリアの具体的な表れについて、完全に論じ切れていない、という主張が強くアピールされる。 1982年にはオーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンが、マリーの部屋という思考実験を提唱し、普通の科学的知識の中にはクオリアの問題は還元しきれないのではないか、という疑念が提唱される。 こうしたネーゲル、ジャクソンの論文が登場しはじめた1970年代後半あたりから、徐々に科学や物理学との関連の中でクオリアの議論が展開されることが多くなる。 最終的にこの流れを決定付けるのは、オーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズである。 1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開する。 この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなる。 以後、現在に至る。

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発展
クオリアを言語や物理的特性として記述しきることができないことは、哲学でしばしば議論される幾つかの疑問と結びついている。
クオリアの科学はどのようにすれば可能なのか。 科学的方法論に基づいてクオリアを扱っていこうとした時に出会う最大の困難は、実験によってクオリアを測定することが出来ない、という点である。 このことを『我々は意識メーターを持たない』などと比喩的に表現する事もある。 どうすればクオリアや意識を科学の表舞台に引き上げることができるのか。 科学哲学の知見を絡めて議論される。
また、人工知能など、一般に意識を持つと考えられていないものが、センサーを通じて光の波長を処理できるとしたら、そのときその人工知能には意識があり、人工知能は赤さを感じているのか(⇒人工意識)。
自分以外の人間に意識があり、クオリアを経験しているのか(⇒他我問題、独我論)。
逆援助orgを論じることは難しい。
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