クオリア

クオリア
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    クオリア

    クオリア
    クオリア(英:複数形 Qualia、単数形 Quale クワーレ)とは、心的生活のうち、内観によって知られうる意識の現象的側面(現象的意識)のこと、またはそれを構成する個々の質感のこと。
    感覚質(かんかくしつ)とも訳される。
    外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えそれを脳に伝達する。
    すると即座に何らかのイメージや感じが湧きあがる。
    たとえばある波長の光(視覚刺激)を目を通じて受け取ったとき、その刺激を赤い色と感じれば、その赤い色のイメージは意識体験の具体的な内容のことであり、その「赤さ」こそがクオリアの一種である。
    簡単に言えば、クオリアとはいわゆる「感じ」のことである。
    「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、世界に対するあらゆる意識的な体験そのものである。
    こうした非常に身近な概念であるにも拘らず、クオリアは科学的にどう取り扱われるべき概念なのかが良く分かっていない。
    この問題は「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」と呼ばれている。
    すなわちクオリアとは一体どういうものなのか、そしてそれは私たちのよく知る「物質」と一体どういう関係にあるのか。
    こうした基本的な点に関してさえ全ての研究者からの合意を取り付けているような意見は未だにない。
    現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」または「意識のハードプロブレム」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行なわれており、「これは擬似問題にすぎないのではないか」という立場から「クオリアの振る舞いを記述する新しい自然法則が存在するのではないか」という立場まで、実に様々な考え方が提出されている。
    現在こうした議論は心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に展開されており、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、クオリアの問題が議論されている。
    また科学の側では、脳科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が議論される。
    とはいえ科学分野では哲学的議論に巻き込まれることを嫌って、一般に意識や気づきの研究として扱われている。
    人が痛みを感じるとき、脳のニューロンネットワークを走る電気信号自体は、「痛みの感触そのもの」ではない。
    脳が特定の状態になると痛みを感じるという対応関係こそあるものの、両者は別のものである。
    クオリアとは、ここで「脳の状態」だけからは説明できない「痛みの感触それ自体」にあたるものである。


    類義語を採用しない理由

    類義語を採用しない理由
    現象的意識や主観的体験などもクオリアとほぼ同義の言葉であるが、しかしながらこれらの言葉は「同時に体験されている種々雑多なクオリアの集まり全体」のことを指して使われる事が多い。
    例えば仕事帰りのあなたが体験しているクオリアには次のようなものがある。
    脇を走り抜ける車が出すブンブンとした音、夕暮れの空の赤さ、近所の家の換気扇から流れてくるおいしそうなシチューの匂い、心地よい疲労感などなど。
    このとき、同時に体験しているこれらクオリア全体のことを指して現象的意識、主観的体験などと言うのが一般的である。
    クオリアと似たような意味内容を持った言葉は歴史上数多く存在してきた。
    例えば西洋哲学で表象や、ジョン・ロックの二次性質という概念、またセンス・データや、現象学における現象という概念などが、また東洋哲学においては仏教における六境という概念などがクオリアと非常に近い意味を持つ。
    にも拘らずクオリアという新しい呼び名が使われる背景には、次の二つの理由がある。
    ひとつは、表象や現象という言葉が既に多義語であり、厳密な意味を持たせて使用するのが困難であること。
    そしてもうひとつは、先述の語とは用いられる文脈が異なることをはっきりさせる目的があることである。
    つまり表象や現象という言葉が純粋に思弁的な議論で用いられることが多いのに対し、クオリアという言葉は、必ずと言って良いほど、神経細胞や原子、物理法則、脳といった科学用語と一緒に登場し、かつそういった自然科学的な知識を重視したスタンスでの議論が行われる、という事である。
    この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点から、旧来の用語とは異なる「クオリア」という新語が好んで使われる。
      

    様々なクオリア
    様々なクオリア
    人間の体験するクオリアは実に多彩であり、それぞれが独特の感じをもつ。
    たとえば視覚、聴覚、嗅覚からはそれぞれ全く違ったクオリアが得られる。
    どういった状態にクオリアが伴い、またどういった状態には伴わないのか、これ点はしばしば議論の的なる。
    とりあえず以下に並べるものは、比較的議論なくクオリアをともなうと言ってよい、と多くの人が考えるものの例である。
    視覚体験 視覚体験には様々なクオリアがともなう。
    その単純さから最も頻繁に議論の対象にされるのが色であり、これには例えば、リンゴの赤い感じ、空の青々とした感じ、などがある。
    他にも形、大きさ、明るさ、暗さ、そして奥行きがある。
    片目で世界を眺めるよりも、両目で世界を眺めた方が、世界はより三次元である。
    つまり奥行きのクオリアが伴なう。
    聴覚体験 聴覚からもたらされるクオリアも非常に豊かである。
    笛から発せられた空気振動がもたらすピーッというあの感じ、また特定の高さの音を同時に聞いたとき、つまりマイナーコードやメジャーコードといった和音を聞いたときに受けるあの感じ、そしてそれらの音が時間的につらなったときに受けるあの感じ、つまり音楽を聞いたときにうける独特の感覚などである。
    触覚体験 触覚からもたらされるクオリアには以下のようなものがある。
    シルクの布を撫でた時に感じられるツルツルした感触、無精ひげの生えたあごを撫でた時に感じられるザラザラした感触、水を触ったときの感じ、他人の唇に触れたときの柔らかい感じなど。
    嗅覚体験 嗅覚から得られるクオリアは、もっとも言葉で表現しにくい感覚のひとつである。
    朝、台所から流れてくる味噌汁の香り、病院に漂う消毒液の匂い、公衆便所の芳香剤の臭いなど。
    それぞれがどのような香りなのか説明してみろ、と言われても説明に困るのではないだろうか。
    分子レベルのメカニズムとしては、臭いは鼻腔の奥の嗅細胞において検知される。
    ここで鍵と鍵穴の仕組みで、レセプターに特定の分子が結合した際に、特定の香りが体験される。
    しかしながら、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の香りをともなっているのか、この組み合わせはかなり恣意的に思える。
    この組み合わせがどのように成立しているかは、依然として何も分かっていない。
    味覚体験 味覚は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味から構成されていると考えられており、これらの組み合わせによって数々の食料・飲料品の味が構成されている。
    分子レベルのメカニズムは、嗅覚と同様に、舌にある味覚受容体細胞において、鍵と鍵穴の仕組みでレセプターに特定の分子が結合すると、特定の味が体験されることになる。
    しかしながら、嗅覚の場合と同様、ある特定の形状の分子が、なぜある特定の味をともなっているのか。
    この組み合わせが成立している背景については、依然何も分かっていない。
    冷熱体験
    痛覚
    他の身体感覚
    感情
     
    次に並べるものは。
    それが質感持つかどうかについて議論が分かれる。
    心的表象
    自分という感覚
    意識的思考
    このようにクオリアが持っている基本的に異なったいくつかの種類のことを感覚のモダリティーと呼ぶ。
    しかし時には違ったモダリティーが混ざり合うこともあり、そのような現象は共感覚と呼ばれている。
       

    クオリアに関する思考実験
    クオリアに関する思考実験
    クオリアの問題を扱った思考実験に以下のようなものがある。
     
    逆転クオリア
    同等の物理現象に対して、異質のクオリアが伴なっている可能性を考える思考実験。
    色についての議論が最も分かりやすいため、色彩について論じられることが最も多い。
    同じ波長の光を受け取っている異なる人間が、異なる「赤さ」または「青さ」を経験するパターンがよく議論される。
    逆転スペクトルとも呼ばれる。
    哲学的ゾンビ
    全ての面で普通の人間と何ら変わりないが、クオリアだけは持たない、という仮想の存在。
    心の哲学において、クオリアという概念を詳細に論じるためによく使われる。
    マリーの部屋
    生まれたときから白黒の部屋に閉じ込められている仮想の少女マリーについてのお話。
    マリーは白、黒、灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みながら色彩についてのありとあらゆる学問を修める。
    その後、この部屋から解放されたマリーは色鮮やかな外の世界に出会い、初めて色、というものを実際に体験するが、この体験(色のクオリアの体験)は、マリーのまだ知らなかった知識のはずである。
    この事からクオリアが物理化学的な現象には還元しきれない事を主張する。
    コウモリであるとはどのようなことか
    コウモリはどのように世界を感じているのか。
    コウモリは口から超音波を発し、その反響音を元に周囲の状態を把握している(反響定位)。
    コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じるのか、それとも「聞こえる」ようにして感じるのか、または全く違った風に感じるのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。
    こうしてコウモリの感じ方、といった事を問うこと自体は出来るが、しかし結局のところ我々はその答えを知る術は持ってはいない。
    このコウモリの議論は、クオリアが非常に主観的な現象であることを論じる際によく登場する[2][3]。

    不倫
    自然科学との関係
    たとえばリンゴの色について考えた場合、自然科学の世界では「リンゴの色はリンゴ表面の分子パターンによって決定される」とだけ説明される。
    つまり、リンゴ表面の分子パターンが、リンゴに入射する光の内特定の波長だけをよく反射し、それが眼球内の網膜によって受け取られると、それが赤さの刺激となるのだ、と。
    そしてこの一連の現象の内、次のような点に関しては神経科学・物理学・哲学といった専攻や立場の違いに関わりなく、ほぼ全ての研究者の間で意見が一致する。
    どのような分子がどのような波長の光をどれぐらい反射するのか(⇒光化学)
    反射した光は、眼球に入った後、どのようにして網膜の神経細胞を興奮させるのか(⇒網膜)
    その興奮は、どのような経路を経て脳の後部に位置する後頭葉(視覚野)まで伝達されるのか(⇒視神経)
    後頭葉における興奮は、その後どのような経路を経て、脳内の他の部位に伝達していくのか(⇒神経解剖学)
    だが一般に、こうした物理、化学的な知見を積み重ねても最後のステップ、すなわち「この波長の光がなぜあの「赤さ」という特定の感触を与え、この範囲の光はどうしてあの「青さ」という特定の感触を与えるのだろうか」といった問題は解決されないまま残されてしまうことになる。
    この現在の自然科学からは抜け落ちている残されたポイント、すなわち「物理的状態がなぜ、どのようにしてクオリアを生み出すのか」という問題について、1994年にオーストラリアの哲学者ディビッド・チャーマーズは、「それは本当に難しい問題である」として「ハード・プロブレム」という名前を与えた。
     
    クオリアの自然化
    向精神薬や脳表電気刺激の実験などからも分かるように、「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」の間には緊密な関係がある。
    しかしながらそれが具体的にどのような関係にあるのかは未だ明らかではない。
    この「脳の物理的な状態」と「体験されるクオリア」がどのような関係にあるのか、という問題に対しては、抽象的なレベルにとどまってはいるが様々な仮説が提唱されている。
    こうした「クオリアを整然とした自然科学(とりわけ物理学)の体系の中に位置づけていこう」という試みは、クオリアの自然化 (Naturalization of Qualia) と呼ばれ、心の哲学における重要な議題のひとつとなっている。
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