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一元論
機能主義
詳細は「機能主義 (心の哲学)」を参照
心の哲学における機能主義は、同一説の不十分さに対して、ヒラリー・パトナムやジェリー・フォーダーによって定式化された。 パトナムやフォーダーは、心の状態を、経験主義的な心の計算理論の観点からとらえる。 ほとんど同じか少し遅れて,D.M.アームストロングとデイヴィド・ルイスは、素朴心理学の心の概念がどのような機能を果たしているかを分析する機能主義の一種を定式化した。 最後に、ウィトゲンシュタインの「(語の)意味とはその用法である」というアイデアに由来するが、ウィルフリド・セラーズとギルバート・ハーマンによってかなり発展した意味の理論としての機能主義の一種が登場した。
これらさまざまなタイプの機能主義に共通するのは、心的状態は他の心的状態・感覚的インプット・行動的アウトプットとの因果関係によって特徴づけられる、というテーゼである。 つまり、機能主義は心的状態が物理的にどう実現しているかを心的でない「機能的な」性質を使って特徴づけ、そうすることでそうした実現のされ方の細部を取り除いた抽象化を行うのである。 たとえば、肝臓は、科学的には、血液をろ過し一定の化学的なバランスを保つという機能的な役割によって特徴づけられる。 この観点からすると、肝臓が有機的な組織であろうとプラスチックのナノチューブであろうとシリコンチップであろうと関係ない。 というのも、肝臓が果たす役割や他の臓器との関係こそが肝臓を定義するからである。

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非還元的な物理主義
多くの哲学者たちが、心身関係に関する次の二つの信念をかたく信じている。 1)物理主義は正しく、心の状態は物理的状態であるにちがいない。 しかし 2)還元主義者が出す結論はすべてが満足のいくものとはいかない:心の状態は行動や脳の状態や機能の状態などに還元できない。 それ故、還元的でない物理主義といったものが存在し得るのだろうかという疑問が持ち上がる。 ドナルド・デイヴィッドソンの非法則一元論は、そうした物理主義を定式化する試みのひとつである。
非還元的な物理主義者の誰もが受け入れているのが付随性(「スーパーヴィーニエンス」)のテーゼである。 これは、心的状態は物理的状態に付随するが、物理的状態に還元可能ではない、というテーゼである。 「付随性」は関数的な依存関係をあらわしている。 つまり、物理的なものに変化がないかぎり、心的なものにも変化がない。
消去主義的唯物論
還元の試みはこれまですべて失敗してきたと考え、しかも、非還元的唯物論は不整合だと思う唯物論者は、最終的でもっとラディカルな立場を採用することもできる。 それが消去主義的唯物論である。 消去主義的唯物論は心的状態は日常の「素朴心理学」(フォークサイコロジー)がもちこんだ虚構的なものであると考える。 消去主義者は「素朴心理学」を科学理論に類似したものと捉えるが、科学の発展の過程でその素朴心理学が間違いだと判明したなら、素朴心理学が想定していた実体もすべて放棄せねばならない。
パトリシア・チャーチランドやポール・チャーチランドのような消去主義者はしばしば、歴史上の間違っていたが、広く信じられていた理論や存在論の運命を持ち出す。 たとえば、ある問題の原因が魔術だという信念は間違いだとわかると、その結果ほとんどの人はもはや魔女の存在を信じない。 魔術は他の現象でもって説明されるようになったのではなく、ただ言説の中から「消去」されたのである。

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心身問題の言語的批判
心身問題に答えようとするこれらの問題はどれも大きな問題に直面する。 哲学者の中には、そうなってしまうのは概念的な混乱が背後にあるからだと論じる者もいる。 したがって、これらの哲学者たち、たとえばルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと言語的批判におけるその追従者たちは、心身問題は錯覚であるとして拒絶する。 彼らは心的状態と生物学的状態が適合するかどうかと問うのは間違いだと論じる。 むしろ、単に、人間の経験はいろいろな仕方で記述できる---たとえば心的な語彙で記述したり生物学的語彙で記述したりできる---のだということを受け入れなくてはならない。 錯覚的な問題は、ある問題を別の語彙を使って記述したり、心的な語彙がまちがった文脈で使われたりしたときに生じる。 これはたとえば、脳の心的状態を探したりするときに生じる。 脳というのは心的な語彙を用いる文脈としては単純に間違っているのである。 したがって、脳の心的状態を探し求めるのはカテゴリーミステイク(範疇の錯誤)、つまり一種の推論の誤謬なのである。
今日では、そういう立場はしばしばピーター・ハッカーのようなウィトゲンシュタインの解釈者によって採用されている。 しかしながら、機能主義の創始者であるヒラリー・パトナムもまた、心身問題はウィトゲンシュタインのやり方で解消されるべき錯覚的な問題だという立場をとっている。
自然主義とその問題
物理主義の主張は心は物質世界または物理世界の一部だ、というものである。 こうした立場は、物質が持たないとされる性質を心が持っている、という問題に直面する。 それゆえ物理主義はこうした性質がどうやって物質的なものから生じるのかを説明しなければならない。 こうした説明を与える行為は心の自然化(naturalization of the mental)と言われる。 心の自然化が直面する主要な問題は、クオリアを説明すること、そして志向性を説明することである。

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クオリア
多くの心的状態が、異なる個人によって異なった方法で主観的に経験されるという性質を持っている。 たとえば痛いということが、痛みという心的状態の性質である。 さらにいえば、あなたの痛みの感覚は、私の痛みの感覚と、同じではないかもしれない。 なぜなら我々は、どれほど痛いのかを測ったり、どんな風に痛いと感じるのかを表したりする方法を欠いているからである。 哲学者や科学者たちは、これらの経験がどこから来るのだろうかと尋ねる。 神経的ないし機能的状態がこうした痛みの経験と同伴し得ることを示すものは何もない。 しばしばポイントは次のように定式化される。 脳の出来事の存在は、それだけでは、なぜこれらと対応する質的経験と同伴するのか説明することができない。 なぜ多くの脳の過程が意識の経験的側面をともなって生じるのかという難問は,説明することができないように思われる。
しかし科学が最終的にはこうした経験を説明するにちがいないと多くの人は思っているようである。 このことは還元的説明の論理から来ている。 もし私がある現象(たとえば水)を還元的に説明しようとすれば、私はこの現象が持っているすべての性質(たとえば流動性や 透明性)について,何故そうした性質を持っているのか説明しなければならないだろう。 心的状態の場合、このことは次のことを意味する:心的状態が経験された性質をもつのはどうしてかを説明する必要があるということである。
内省的な、第一の人の心的状態のある面や意識一般を、第三者の量的な神経科学の言葉で説明するという問題は、説明のギャップと呼ばれる。 このギャップの本質については、現在の心の哲学者の間でも、いくつかの異なった見方が存在する。 デイヴィッド・チャーマーズや初期のフランク・ジャクソンらは、このギャップを実際は、存在論的なギャップであるとみなす。 つまり彼らはクオリアが科学によって説明できないのは、物理主義が間違っているからだと主張する。 絡まり合った二つのカテゴリーが存在するのだが、ひとつは他方に還元することはできないのである。 これとは違った見方は、トマス・ネーゲルやコリン・マッギンのような哲学者がとる見方である。 彼らによれば、このギャップは実際は認識論的なギャップである。 ネーゲルはいう。 科学は未だ主観的経験を説明することができないが、その理由は科学が求められているレベルのあるいは種類の知識に未だ到達していないからである。 我々は問題を首尾一貫した形で定式化することさえできていない。 一方マッギンは次のようにいう。 問題は、永続的で固有の生物学的限界の一つである。 我々は説明のギャップを解決することができない。 なぜなら量子物理学が象にとっては認知的に閉じているのと同様に、主観的経験の領域は我々にとって認知的に閉じているからだ。 また別の哲学者たちは、このギャップを単に意味論的問題として片付けている。

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志向性
志向性とは、外部世界の存在に対して直接に(その存在について)心的状態を向ける能力であり、心的状態を関連付ける能力である。 この心的状態の性質からは,心的状態が心的内容や意味論的な指示対象を持たなければならず、それ故に真理値を与えることができることになる。 こうした心的状態を自然的(物理的)過程に還元しようとすると、ひとつの問題が持ち上がる。 すなわち、自然的(物理的)過程は(命題とは異なり)、真か偽かいずれかであるというものではなく、ただ生じるものである。 自然的(物理的)過程が真でありまた偽であるなどと言うことは意味が無い。 しかし心的観念や判断は真か偽かいずれかである。 それでは心的状態(観念や判断)はどのようにして自然的(物理的)過程であり得るのだろうか?意味論的(真偽)値を観念に与えることができるということは、そうした観念が事実についてのものである、ということを意味しなければならない。 それ故、たとえば、ヘロドトスは歴史家であるという観念は、ヘロドトスと彼が歴史家である事実を指し示す。 もしこの事実が真であるなら、この観念もまた真である。 この事実が真でないなら、観念もまた偽である。 しかしこの関係は何に由来するのか?脳の中では、単なる電気化学的な過程だけが存在し、これらはヘロドトスと何の関係もないのである。
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